港の突堤・護岸・雁木・繋船施設等
都道府県別データ一覧にある突堤・護岸・雁木・すべり・舟繋石など
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
大町第一物揚場
・跡
おおまち・ものあげば
北海道/函館市
函館港
物揚場
万延元(1860)
函館市港湾課
オリジナルの石を使い修景している部分と、一区画に全体的に残っている部分がある
函館開港150年の要となる優位津の港湾施設(旧居留地護岸)/石積み構造が老朽化していたため、景観条例を根拠とした補助事業により景観形成基準に基づき石積みの一部を残して前面を埋め立て
〔写真は、修景を受けなかったオリジナル部〕
1-3
A
佐賀家漁場の船着場
・跡
さが
北海道/留萌市
船着場
弘化元(1844)以降
国史跡
市教委/WEB
木杭で囲まれた部分がかつての船着場とされているが年代は不詳
弘化元に佐賀家八代・平之丞が留萌で初めて礼受にニシン漁場を開いた→以来佐賀家の中核的漁場となってきた
4
B
「南美谷」前の船揚場
・跡
みなみびや
北海道/(寿都)寿都町
船揚場
江戸期?
(石の積み方から)
現地
放置
北海道のにしん漁の関連施設
3
C
「鰊御殿」前の船揚場
・跡
にしんごてん
北海道/(寿都)寿都町
船揚場
江戸期?
(石の積み方から)
町教委
全体の雰囲気がよく残っている
北海道のにしん漁の関連施設
2
B
鴎島の係船柱
・跡
かもめじま
(檜山)江差町
(鴎島)
鴎島周辺
繋船柱の穴
25ヶ所以上
江戸期
町史跡
WEB
崖沿いに付けられた遊歩道から繋船柱や穴がよく見える
江差の百選/江差商人の手よって設置/江差側よりも波の静かな鴎島の崖沿いの岩
〔写真参照〕
に穴を開け木杭を立て、北前船を係留した
2
B
大澗海岸の舫岩
おおま・もやい
青森/(北津軽)中泊町
舟繋穴
中世?~近世~明治
町有形
町教委
大間海岸の海中や岸壁に12ヶ所現存
北前船を繋留したといわれている岩礁の穴
2
B
象潟川の舟つなぎ石
きさがた
秋田/にかほ市
象潟川
舟繋石
江戸期
WEB
「左右往還」
2
C
蚶満寺の舟つなぎ石
かんまんじ
秋田/にかほ市
蚶満寺
舟繋石
江戸期
市史跡
市教委
傾いている
「左右往還」/潟時代に蚶満寺へ渡る舟が綱をつないだ棒状の丸石
3
C
洲島の舟繋石
すのしま
山形/(東置賜)川西町
<最上川>
舟繋石
高約1.5m,幅54㎝,厚94㎝
江戸期
WEB
耕作地の中に残る
最上川(松川)と鬼面川、和田川、吉野川が合流する地点/イザベラ・バードがここから舟で川を渡った
2
B
両津大川の目繰り
りょうつおおがわ
新潟/佐渡市
(佐渡島)
<北前船>
舟繋穴
5基
江戸期
市教委
海面すれすれにある割には保存良好
海岸の岩に、北前船を係留するための穴が開いている/海面上に単独で存在するものが多くユニーク
2
B
宿根木の船つなぎ石
しゅくねぎ
新潟/佐渡市
(佐渡島)
<北前船>
舟繋石
(花崗岩)
3基
江戸期
市史跡
市教委
復元
北前船を係留するための石/大阪で荷を下ろした北前船が、空船になった帰りの船を安定させるために、尾道の花崗岩を積んで航行していたため、寄港地であった宿根木には花崗岩の石造物が多く残存している
3
B
佃島・石川島の護岸
つくだ、
いしかわ
東京/中央区
石護岸
江戸期
現地解説板/WEB
周囲にビルが立ち並んでいるが舟溜りのまま残り、かつて島だった雰囲気が漂う
佃島は、摂津国佃村の漁夫が正保元(1645)に移住した人工島/石川島は、幕府の船手頭・石川八左衛門重次が江戸初期に徳川家光から拝領した島/護岸を石積にした年代は不明/江戸幕府より建立を許された大幟の柱と抱が埋没
2
A
こんぼった石
長野/諏訪市
舟繋石
高約60㎝
江戸期以前?
市教委/WEB
かつてこの辺りまで諏訪湖が広がっていた頃、村人が漁に出る舟を繋いだ石とされる
3
B
新居関所の船着場
・跡
あらい
静岡/湖西市
<東海道>
石護岸
宝永5(1708)
国特別史跡
現地解説板/WEB
大正以降の埋め立てで喪失→平成14渡船場の一部を復元整備
新居関所に隣接/明応7(1498)の大地震で浜名湖に切れ目(今切口)ができ海とつながったため、新居~舞坂間を渡し舟で通るようになった/宝永5(1708)に今切関所の移転に伴い渡船場を構築
3
B
大浦湾の舫石
おおうら、
もやい
静岡/下田市
大浦湾
舟繋石(臼状)、舟繋穴
(計30ヶ所以上)
江戸初-中期
市教委
接近困難
寛永13(1636)-享保5(1720)の間、大浦湾に船改番所が置かれていた際に検問を受ける廻船を舫うため、自然の岩盤を刳り抜いて設けられた
(検問が済んでから下田港の方に回航された)/臼状石・繋ぎ穴の総数は把握している限りにおいて全国最多
2
A
御馬湊の御城米積立場
おんまみなと、ごじょうまい
愛知/豊川市
<御馬湊>
石すべり(花崗岩)
寛永12(1635)以降
市教委/現地解説板
江戸期の港の石すべりが良好に保存された珍しい事例
代官・鳥山牛之助・鈴木八右衛門により定められた「五か湊」の1つ(幕府に納める年貢米の集積場)/石を谷積風に敷き詰めた「すべり」
2
B
枝下町の渡しの舟つなぎ石
しだれ
愛知/豊田市
<飯田街道/矢作川>
舟繋石(Π型)
江戸期?
市教委
川との関連性が若干薄い(果樹や畑に囲まれている)
粗削りの2本の石角柱の上に、屋根型に粗く加工した石梁を載せる構造(水門を連想させる形態=舟繋石としては異例)
2
C
福浦港の目繰り
ふくうら、
めぐり
石川/(羽咋)志賀町
<福浦港の大澗・水の澗>
舟繋穴(数10個)
江戸期
町有形民俗
中部の土木史p58-59
一部欠けるものの、一部は現役
北前船の重要な経由地であることを物語る重要な遺構/崖のかなり高い位置に多くの船繋ぎ穴が設けられている→他の船繋ぎ穴と形態が異なり独自色が強い
2
A
長橋の船入場
ながはし
福井/福井市
長橋漁港
石すべり
正徳2(1712)以前
市教委
すべりの大半はCされているが形態は保持/側面の石材が残るもの、すべり表面に一部石材が確認できるものもある
長橋の「居倉浦郷鑑」(1712)に舟揚澗6艘分と記載/江戸期由来のすべりが残る漁村
3
A
疋田の舟留石
ひきた
福井/敦賀市
疋田舟川
舟繋石
高24㎝,幅32㎝,厚57㎝
文化12(1815)
歴史の道2p214
原位置(川沿い)
疋田舟川の関連施設
1
C
児屋川河口の船入場
こやのがわ
福井/敦賀市
すべり
文化12(1815)
市教委
すべりはC化/川幅改修の可能性
旧敦賀港の一部/文化12に疋田舟川から御手洗川まで開削し、児屋川と結んだ
3
C
大比田浦の舟揚場
おおひだうら
福井/敦賀市
石すべり
江戸期
市教委
縮小されたが石敷を含め一部現存
北前航路ではなく、敦賀と武生を結ぶ地域航路の出発点/廻船問屋・田中家の舟揚場
3
C
矢橋港の石積突堤
やばせ
滋賀/草津市
<矢橋渡し場>
石突堤(3基)
①長73m,幅2.8m
,高1.1m,
②長42m,幅3.7m
,高0.9m,
③長29m,幅1.7m
,高0.9m
江戸期
市教委/WEB
発掘→②と③は残存突堤を整形して復元、①は人道化/陸上の公園内/①の脇に下記の「矢橋の常夜灯」
矢橋港の突堤/港の突堤が(陸上にせよ)現存することは稀
3
A
旭のもやい石
あさひ
京都/京丹後市
<朝日港>
舟繋石
江戸期?
市教委
移設
船を係留するため元々この場所にあった石を削って作られたもの
2
C
高池の渡船碑
とせんひ
和歌山/(東牟婁)古座川町
<古座街道>/<池野山川>
舟繋石(2基)
(1)高96㎝,幅53㎝,厚35㎝
(2)高96㎝,幅76㎝,厚35㎝
享保8(1723)
町史跡
町教委/WEB
片岸に並べて移設(C基壇上)
施主:池口村古座組大庄屋中西勝応/「願以比功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道」と陰刻/正面上部に地蔵菩薩が陽刻されている/池野山川渡船場の両岸に1基ずつあった舟繋石とみられている
3
B
明石港突堤・跡
あかし
兵庫/明石市
<明石港>
船着場?
元和6(1620)
市教委
旧灯台付近のみ残存?
現在は明石港旧灯台の土台となっている突堤/明石城石垣と同じちぎり工法、合い端合わせが使用されている
4
C
室津の舟つなぎ石
・跡
むろつ
兵庫/たつの市
<室津湊>
舟繋石
高約30㎝→5㎝
近世?
市教委
ほぼC埋設
室津湊に残る船つなぎ石
4
C
津居山港の北前船係留施設
ついやま
兵庫/豊岡市
舟繋石・舟繋杭
石杭2基,目繰り10基,もやい岩6基
但馬の湊と和船係留跡についてp79-81/WEB
津居山湾西岸に残る北前船の係留施設/「長磯」と呼ばれる500m続く岩礁地帯に点在する/港町に近い付近に見張り岩と呼ばれる岩礁を階段状に掘削した岩も残る
1
B
竹野の北前船係留施設
たけの
兵庫/豊岡市
舟繋石・舟繋杭
(花崗岩)
目繰り1基,石杭10基
但馬の湊と和船係留跡についてp77-79
猫崎半島東側の岩礁地帯「アド」に残る北前船の係留施設/石杭は地元産の石材が使用されている
1
C
龍野町の船つなぎ石
たつの
兵庫/姫路市
船場川
舟繋石(1基)
江戸期
市教委(文化財見学シリーズ5)/現地解説板
現地に建つ宅地の庭石として使用/見学可能
船場川舟運の船に使用された船つなぎ石/船場川は本多忠政により城下から飾磨津を繋ぐ舟運路として整備された/龍野町の豪商「せんざき屋」の船着場のものと考えられる
4
-
今子浦の和船繋留
・跡
いまごうら
兵庫/(美方)香美町
(香住区境)
舟繋石・舟繋杭
目繰り18基,
石杭14基,
もやい岩4基
江戸期
但馬の湊と和船係留跡についてp75-76/町教委
波による風化が進む
今子浦の千畳敷、その沖の黒島に残る北前船の係留施設/3種類の繋留施設がよく残る
3
B
クツイ湾の和船繋留
・跡
兵庫/(美方)香美町
(香住区下浜)
舟繋石
江戸後期
町教委
波による風化が進む
クツイ湾に残る北前船の係留施設
3
諸寄湊の和船繋留
・跡
もろよせ
兵庫/(美方)新温泉町
諸寄漁港
舟繋石・舟繋杭
目繰り7基,
杭穴15基,
もやい岩5基
江戸~幕末
町教委(諸寄漁港にのこる船繋ぎ施設について)/安本恭二
諸寄港の東岸、西岸に比較的集中して残る/詳細な報告書が刊行された稀な例
北前船の風待港であった諸寄港の係留施設/3種類の繋留施設がよく残る/もやい岩は岩を繋船柱状に削り出した形/杭穴は幅約30㎝、深約60㎝の直方体、円筒形であり、一部は朽ちた杭も残る
2
B
居組湊の和船繋留
・跡
いぐみ
兵庫/(美方)新温泉町
<居組港>
舟繋石・舟繋杭
目繰り9基,
杭穴22基,
もやい岩10基
江戸期
町教委/安本恭二
岩場に数多くの船繋ぎ施設が残る
北前船の風待港であった居組港の係留施設/3種類の繋留施設がよく残る
2
A
菊港の防波堤
(西堤)
きく
鳥取/(東伯)琴浦町
菊港
石防波堤(玉石)
長90m,幅5.3m,高3.4m
江戸後期
選奨土木遺産
町教委/歴史の道8p69
保存状態良好/途中で途切れ、その先はテトラポットで補強
日本海側で最も旧状を留める近世防波堤/承応年間(1652~55)に藩倉と船番所が置かれる/築造時期については、諸説あり(東堤:享保・元文、西堤:寛政、文政)/人頭大の玉石
2
A
菊港の防波堤
(東堤)
きく
鳥取/(東伯)琴浦町
菊港
石防波堤(玉石)
長150m,幅13.8m,高2.3m
江戸後期
選奨土木遺産
町教委/歴史の道8p69
若干の改修
承応年間(1652~55)に藩倉と船番所が置かれる/築造時期については、諸説あり(東堤:享保・元文、西堤:寛政、文政)/人頭大の玉石
2
A
江尾の鼻ぐり岩
えび
鳥取/(日野)江府町
江尾駅・下方/日野川
舟繋石
江戸期?
歴史の道3
p19
保存状態良好
石の一端に小孔が掘られている/日野川の水位の上昇の目安にしている
1
-
田の口港西波止の纜石
たのくち・ともづな
岡山/倉敷市
田の口港
舟繋石(花崗岩、円柱)
高60㎝,直径25㎝前後,17個
江戸期
児島の石造物p31,38
防波堤上/現役
由加往来の玄関にあたる重要な港/東波止3本、西波止14本、他に改修時にコンクリートで塞がれたもの10本あまり/西大寺の他、滋賀、京都、広島の寄進者の名前が刻まれている
1
B
元・
玉島港の纜石
たましま・ともづな
岡山/倉敷市
<玉島港>
舟繋石(花崗岩、円柱)
高25㎝,8個
江戸期
連島・玉島港の石造物p16,82,129
周辺埋立て/ポツン、ポツンと放置されたように残っている
円柱だが頭部は四角形(船からの綱がはずれないように)
4
C
片原の舟着場
かたはら
島根/松江市
外堀の京橋川南沿い
石雁木
江戸期
市教委/野津貴章
石垣と雁木の一部は江戸期のもの/ほとんどは改修済み
城下町に物資を搬入する河岸として賑わったところ
3
B
横浜町の宍道湖護岸
よこばま、
しんじ
島根/松江市
石護岸
2段
江戸期
市教委/野津貴章
市街地化/近代の間知石垣の下に顔をのぞかせている
宍道湖の水際に並べられた円筒形の護岸石(如泥石)
3
B
古龍港の和船繋留
・跡
こりゅう
島根/大田市
古龍港
舟繋石(有頭状)
20ヶ所
大永6(1526)以降
WEB
保存状態良好
博多の豪商・神谷寿禎が大永6に石見銀山を開いた後、古龍には銀山史の初期に多くの船が来港したとされる
1
B
鞆ヶ浦の和船繋留
・跡
ともがうら
島根/大田市
鞆ヶ浦港
舟繋穴
数ヶ所
大永6(1526)以降
世界遺産
国史跡
島根県の歴史街道p248/WEB
保存状態良好
博多の豪商・神谷寿禎が大永6に石見銀山を開いた後、鞆ヶ浦には銀山史の初期に多くの船が来港したとされる
2
C
沖泊の和船繋留
・跡
おきどまり
島根/大田市
沖泊港
舟繋石(棒状、臼状)、舟繋穴
寛文13(1673)以降
世界遺産
国史跡
WEB
保存状態良好
毛利氏の時代の銀の積み出し港/係船するために自然の岩盤に穴を刳り抜く/港内に数多く残る/現在も所々漁船の繋留に使われている/3種類(棒状、臼状、鼻ぐり状)の船繋ぎ石が同所に残るのは稀
1
A
江津市本町の鼻ぐり石
ごうつほん
島根/江津市
舟・牛馬兼用の繋石
元禄年間(1688-1704)頃?
歴史の道2p57/島根県の歴史街道p94/市教委
保存状態良好
北前船や江の川廻船の中継地として利用された/川幅が狭く一直線に並んできた船から荷物を下ろし、牛や馬に乗せ換えて荷物を運んだ/丸い穴をくり抜いた石に、小舟や牛馬を繋いだ/本町川沿いに15基、横田家敷地内に4基→港湾の鼻ぐり石と異なり、同一形状の繋ぎ石が連続して並ぶ非常に珍しい光景
1
A
今市船着場
・跡
いまいち
島根/益田市
(乙吉)
石垣
長約30m
江戸末期
市史跡
市教委
現存石垣は幕末期/石垣が途切れた辺りの発掘調査で、荷揚場跡と推測される遺構(礫敷き)が発見されている
益田氏が山陰諸地域や日本列島の各地だけでなく、中国や朝鮮とも交易を行っていた〔李氏朝鮮の『海東諸国紀』(1471)〕拠点であった可能性/今市の、都市としての成立は16世紀中頃なので、この場所がより以前から益田氏の外港として機能し、それに伴った町が付随し、それが、益田藤兼(1529-97)の時代に今市という都市として再構成された可能性も
4
A
本川の雁木・護岸・舟繋石
ほんかわ
広島/広島市(中区)
本川
石雁木
江戸期?
WEB
雁木を支える側壁の一部に近代の石組み
江戸期に栄えた本川かいわいの歴史を物語る/背が高くて幅の狭い雁木
2
B
本川の石組
ほんかわ
広島/広島市(中区)
本川/本川橋の下
石護岸
戦国期
WEB
保存状態良好
毛利輝元の島普請による石組/戦国の城郭以外の石垣積が残るのは例が少ない→見事な石組み
1
B
小方の雁木
おがた
広島/大竹市
(下之町)
石雁木
4、5ヶ所
嘉永5(1852)
WEB/市教委
雁木群の一部が残存
個人の家の裏から雁木を使って船を出し、また炊事や貝堀りなどにも活用したと言われる
3
C
福島雁木(長雁木)
ふくしま
(なが)
広島/呉市
(下蒲刈島)
(下蒲刈)
石雁木
長113m→55.5m,11段→14段
慶長6-元和5(1601-19)
WEB
一部改変/上部3段は後世の付足し
関ヶ原の戦いで殊勲を上げて安芸広島・備後鞆50万石弱の大名に取り立てられながら、豊臣家にも忠義立てしたせいで冷遇され、最後には信濃の国の4.5万石の小大名に減封・転封されてしまった福島正則が、安芸国主だった19年間に行った各種の公共事業の中で、呉市の福島雁木と並び現存する2大構築物の1つ/現存する最古級の雁木
2
A
西松原
にしのまつばら
広島/廿日市市
(厳島)
土突堤(碇泊場)
元文4(1739)
→寛保元(1741)増築
WEB
昭和20突堤延長/厳島神社の全景を見ることのできる観光スポット
広島の商人が御手洗川によって運び出された土砂や浜辺に堆積した砂を利用して、防波堤兼客船の碇泊場として築造した突堤/江戸期以降も徐々に延長を続けており、昭和20(1945)に来襲した枕崎台風によって御手洗川に大規模な土石流が発生した際に、その土砂を用いて突堤をさらに大きく延長した/突堤上に元文2(1737)・寛保3(1743)の石灯籠が100基以上並ぶ
2
B
鞆の大雁木
(保命酒浜大雁木)
とも
(ほうめいしゅ)
広島/福山市
鞆港
石雁木
長約159m
文化8(1811)
WEB/Mook鞆p9-22
花崗岩製の船着場/下段に行くに従い、切石が小さく石の隙間が大きくなっている→海水に浸かる時間の違いや船等との接触に起因/物揚場としての使用が頻繁であった
2
波止雁木
広島/福山市
鞆港
石雁木
長約11m
文化8(1811)
Mook鞆p9-23
切石劣化
大雁木と離れた波止付近に造られた雁木
箕浦港の掘割り
みのうら
香川/観音寺市
箕浦港・最奥部
石荷揚場
50m×35m
天正18(1590)頃→元禄年間(1688-1704)修復
WEB
明治初期に「かね国」という人物が改築=改築の程度不明
小型の砂岩の乱積み/平面的にも立面的にも不整が大きいことから、現在残っている掘割りの護岸石垣は明治初期の改築時のものと思われる→しかし、その上部(海側)に下記の弘化4の常夜灯が建っていることから、掘割りの形態そのものはある程度保持されていると推測される(常夜灯が移設された可能性もある)
2
B
新堀湛甫
しんぼりたんぽ
香川/丸亀市
丸亀港
船着場
145m×72m,入口幅27m,満潮時水深4.8m
天保4(1833)
市教委(新編丸亀市史2・近世編)/金毘羅参詣丸亀街道報告書p7
大幅改修(C雁木)・修景(オリジナルは水面のみ)
施主: 丸亀藩主、実務: 丸亀藩江戸屋敷・瀬山登/福島湛甫完成(1806)後、旅客の増加により手狭になったため、文政年間の末(1830頃)宿屋・土産物業者から新港構築の願いが出されたのを契機に、廻船業者からの寄付などで築造→金毘羅詣での拠点として賑わった
4
A
前塩屋町の舟繋石
まえじおや
香川/丸亀市
正宗寺
舟繋石(花崗岩)
江戸期?
WEB
保存状態良好
「舟つ奈ぎ岩」→舟繋という文字が刻字してある例は稀
1
C
仲ノ町の運上場
・跡
なかの
香川/
(仲多度)多度津町
<「サカナ道」>
石荷揚場
安永年間(1772-80)
歴史の道5p22
保存状態良好
魚の荷揚場
1
B
寒川たんぽ
さんがわ
愛媛/四国中央市
江之元港
掘留港
長90.9m,幅18.m,川入口幅約21.8m
天保8(1837)以降
WEB(四国の古道・里山を歩く)/WEB
改修/プレジャー・ボートの係留地として現役活用
天保の飢饉に困窮する民衆救済のため、西条藩は寒川村江之元港の改修工事を実施した
2
B
城ノ鼻の桟橋の柱穴
・跡
じょうのはな
愛媛/(越智)上島町
(岩城島)
城ノ鼻岩礁部
柱穴
江戸期
歴史の道4p34
視認可能
亀山城の建つ城ノ鼻の崖の先端部/かつて造られていた桟橋を支える柱穴が2列直線状に並ぶ
2
C
手結港
てい
高知/香南市
掘込み港(石護岸)
110m×47m
承応元(1652)
宰相野中兼山p269-271
修景整備
野中兼山・小倉弥右衛門/室津まで距離があるため高知との中間の港として開港(砂に埋もれていた旧港を改修)/先に改修工事に入った室津(1640)、津呂(1651)の経験を活かした兼山3つ目の掘込み港=室戸と高知の中間点/岩盤ではなく砂地への掘り込みが大半(工事は容易)/四周を取り囲む石垣の石材は岸本の脇の磯から舟で運ばれた
2
室津港
むろつ
高知/室戸市
室津港
掘込み港
慶安3(1650)
宰相野中兼山p208-209,257
/市教委
掘込み部、出入口の堤防ともC改修/ごく一部に石積を残す
寛永7(1630)、津呂の開削にあたっていた最蔵坊(石見出身の武将→僧侶→室戸岬先端にある空海ゆかりの最御崎寺を再興)が、第2代藩主・山内忠義に呼ばれ室津入口のサンヨ碆〔はえ〕の除去を依頼されたことに端を発する=港口の大石がなくなり舟の通航が可能となった/野中兼山による最初の改修は寛永17(1640)だが、寛永20に荒天で室津に緊急避難した山内忠義が座礁の危険性を感じたことから改善命令→慶安3(1648)まで改修が続けられる/藩財政補助のための木材売却、御用材の提供にあたり安全な輸送を確保するための避難港的な役割もあったとされるが文献上の証拠はない
3
A
津呂港
つろ
高知/室戸市
室津岬漁港
掘込み港
寛文元(1661)
宰相野中兼山p208,369-373
/市教委
掘込み部、出入口の堤防ともC改修
元和4(1618)、最蔵坊(同上)が第2代藩主・山内忠義の支援を受け開削を開始/岩盤を掘削して港を掘り込む難工事⇒兼山が記したとされる文「石地嶮巖にして寸土無く細砂無く、労費の大、事功の難たる所以也」/室津と津呂は港口間が2.7㎞しか離れておらず、ともに
西南西
に開いている(西と南、西と東と書いてあるのは間違い)⇒2つの港が必要であった合理的な理由が分からない⇒新田開発と異なり築港は藩の財政の悪化要因となる
4
A
佐喜浜港
さきはま
高知/室戸市
佐喜浜港
掘込み港
江戸中期?
市教委
C改修
寛文3(1663)に兼山によって開設と書いたWEBもあるが、一次史料にそうした記載はないし、寛文3は兼山が弾劾→奉行職(筆頭家老)剥奪→幽閉→死去の年なのであり得ない/近世に薪炭・樟脳などの積み出しに使われたことは確かなので、兼山後の築造と思われる
3
C
三津漁港の小突堤
みつ
高知/室戸市
三津漁港
石突堤
江戸期?
高知の近代化遺産p50
ほとんどが昭和戦前以降の施設
享保元(1716)に捕鯨組によって開設された捕鯨の拠点/小突堤は恐らく藩政期のもの
3
C
飯塚宿の舫石
いいづか・もやい
福岡/飯塚市
遠賀川
舟繋石
江戸期
市有形民俗
市教委
飯塚市歴史資料館に移設
宿場町と遠賀川水運の接点
3
C
遠賀堀川の舫石
おんが・もやい
福岡/北九州市
(八幡西区)
堀川(遠賀堀川)
舟繋石(3基)
高20~40㎝,幅15㎝,厚10㎝
宝暦元-9(1751-59)
WEB
遠賀堀川関連の遺産としては最下流部に位置する
川ひらたを係留するための船繋石/石に開けられた穴(径5㎝)に綱を通して船を結び付けていた
3
C
勝浦の西東区の船つなぎ石
かつうら、
にしひがしく
福岡/福津市
舟繋石(2基)
(不定形四角柱)
高85㎝と83㎝
江戸期
WEB/WEB(筑前国境石散歩)
陸地化(さらに、移設された可能性も)
下にいくほど細くなった係船柱
2
C
浜崎浦の石波止
はまさきうら
福岡/(遠賀)芦屋町
遠賀川
石防波堤
長109m(当初)
延亭2(1745)
町教委
明治12に崩壊後、長127mに修復、その後、さらに継ぎ足している/どの部分に原形が残るか不明
俵屋吉永清三郎が私財を投じて建設
3
C
元・
浜崎浦の石スベリ
はまさきうら
福岡/(遠賀)芦屋町
遠賀川
石スベリ
長約5m
嘉永4(1851)?
町教委
舗装され、両側に家が建ちスベリのイメージは喪失/最下部左に「浜崎浦のトモ綱石2」
船を容易に引き上げるための工夫/年代は「浜崎浦のトモ綱石1」にあわせたが実際は不明
4
C
浜崎浦のトモ綱石1
はまさきうら
福岡/(遠賀)芦屋町
遠賀川
舟繋石
(円柱、花崗岩)
高70㎝,幅34㎝,厚27㎝
嘉永4(1851)
町教委
移設?
世話人:萬屋(よろずや)平六、建立年が刻字→舟繋石としてはきわめて稀
2
B
浜崎浦のトモ綱石2
はまさきうら
福岡/(遠賀)芦屋町
遠賀川
舟繋石
(円柱、花崗岩)
高68㎝,幅30㎝,厚24㎝
嘉永4(1851)?
町教委
原位置
世話人:江藤典四郎/年代は「浜崎浦のトモ綱石1」にあわせたが実際は不明
1
C
出島和蘭商館の荷揚げ場
・跡
でじま
長崎/長崎市
石護岸
寛永13(1636)
WEB(甦る出島)
復元(下部はオリジナル、上部は同様の技法で想像復元/
上記の「出島和蘭商館・跡」の航空写真の
B
人工島・出島の西側にあった荷揚げ場/中島川の変流工事で北側の長い石護岸が消失した現在、その最下流にあって唯一当時の姿を留める、という意味で価値が高い
3
A
深堀の御船手
・跡
ほかほり
長崎/長崎市
石護岸
寛永8(1631)以降
WEB(みさき道人)
埋立により形態は改変→石垣護岸のみ残る
佐賀藩海軍の船溜/長崎警備のために設けられた
3
B
元・
梅香崎の唐船繋場の繋石
うめがさき
長崎/長崎市
(玉園町)杉山宅・旧迎陽亭
舟繋石
弘化3(1846)
WEB(みさき道人)
門柱に転用/西道仙(1836-1913)による「唐船維覧石」の書が刻字
長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」(平成16)には、宝暦12に梅香崎に唐船繋場が造られた際、石垣とともに設置されたとされる、との記載がある。しかし、清水寺や梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石に転用されているとの記載には疑問があるし、『長崎周辺“石・岩・陰陽石”』(平成14)では、長崎駅近くの波止場に唐船継纜用の石だとされており、由来は定かでない
3
B
福田大番所の船囲場
・跡
ふくだ
長崎/長崎市
小浦町
石護岸、石防波堤
石護岸: 長約50m
,石防波堤: 先端部の長約20m
弘化3(1846)
WEB(みさき道人)
石積を含め比較的良好な保存状態
長崎に異国船が来航した時、この港から大村藩士が乗り込んだ番船が出港し長崎の警備に当たった(警備役人の詰所としての御舟蔵)
2
B
板敷浦の御船蔵
いたじき、
おふなぐら
長崎/大村市
<大村藩>
石埠頭
長約40m弱と約30m弱の2本の突堤を囲む水域
元禄年間(1688-1703)頃
県史跡
WEB
保存状態良好
4代藩主・大村純長が外浦小路から移して構築/藩主が乗る御座船や藩船が格納された(藩主が長崎や領内各所を訪れる際に利用)
1
A
板敷浦の玖島城船役所の突堤
いたじき、
くしま
長崎/大村市
<大村藩>
石突堤
長約30m
江戸期
県史跡
WEB
保存状態良好
藩の船役所のための船着き場の附属施設
1
B
板敷浦の玖島城船役所の護岸
いたじき、
くしま
長崎/大村市
<大村藩>
石護岸
長約90m余
江戸期
県史跡
WEB
保存状態良好
藩の船役所のための船着き場の附属施設
1
B
白石のともづな石
しらいし
長崎/五島市
(福江島)
八坂神社近く
舟繋石
延暦23(804)以前
<岐宿町史跡>
WEB
移設→白石観音堂内(底部C固定)
遣唐使たちが船の修理や食料補給・風待ちのために港に入った際、とも綱を結わえたと言われている
3
B
早岐瀬戸の突堤
はいきせと
長崎/佐世保市
早岐
石突堤
嘉永元(1848)以前
市教委
側壁C化/基部に道路/C製の付属物
早岐瀬戸の最も狭い部分に築かれた石突堤/急潮を狭め、沿岸を港として利用できるよう考えられたもの/『平戸八景』(1848)に石でできた突堤の様子がリアルに描かれている
3
B
高後崎藩所の御船江
・跡
こうござき
長崎/佐世保市
俵ヶ浦半島
石突堤
正徳4(1714)
WEB/市教委
石突堤は天端部がC化
平戸藩が領内各地に設けた船番所の1つ、高後崎番所の御船江
2
B
久田のお船江
(対馬藩お船江)
くた
長崎/対馬市
石突堤(4基)
寛文3(1663)
県史跡
WEB/市教委
保存状態良好(石垣は当時の原形を保つ)
対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/対馬藩の御用船専用の港(北の厳原は商人・漁民の港)/久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠が残る
1
平戸のオランダ埠頭
(恵比寿埠頭)
ひらど
(れびす)
長崎/平戸市
(平戸島)
平戸和蘭商館跡
石雁木
12段
江戸初期
WEB
雁木の保存状態良好
商館の船着場として、商館員・船員の乗り降り・積荷の上げ下ろし運搬に用いられた
1
C
浦郷のともづな石
うらごう
長崎/(西彼杵)時津町
八幡神社・前
舟繋石
文政年間(1818-30)以前
WEB(みさき道人)
移設(もと、中通り)(昭和60)
現在の中通りの辺りが波止場だった時代(文政年間)に舟繋石として使われていた
2
C
彼杵の元禄船着場
そのぎ
長崎/
(東彼杵)東彼杵町
彼杵港
石護岸(雁木)
長約50m
元禄年間(1688-1704)
町教委
現役で使用
彼杵宿郷・長崎街道の渡し場/雁木状の護岸は貴重/元禄年間に開港した彼杵港に因んで命名
1
B
下正路の御船寄
・跡
しもしょうじ、おふなより
大分/中津市
中津川・河口
石突堤(玉石積)
江戸期
市史跡
市教委/WEB
大規模な修復(中津川側はRC改修)/草木が生え荒れている
中津藩の御座船が繋留されていたと伝えられる施設(一部突堤が残る)
3
C
船津岸壁石段
ふなつ
熊本/天草市
牛深港
石護岸
(雑割石積)
寛政11(1799)
歴史的港湾施設資料集
泊地:ほぼ竣工当時の規模が残り、保存状態も概ね良好
当時、港へ寄港する旅船等の監督のため、御用船の船着き場となっていた
2
B
蓮仏の舟岩
(岩見岩)
れんぶつ
熊本/宇城市
舟繋石(自然岩)
約2m×2m,高約1.3m程度
中世~江戸末期
小川町史p.299,
1017
原位置/蔓で覆われている/地蔵尊が祀られている
かつて小舟をつないだ岩/山陰からの岩見船が岩にぶつかった(江戸末期)という伝承
3
C
立岩の舟留め遺構
たていわ
熊本/
(球磨)あさぎり町
球磨川
舟繋石
高・幅とも約10mの巨岩
江戸期
町史跡
町教委/WEB
保存状態良好
舟溜のくり抜き穴と、崖面に「舟場」の文字を刻む遺構/明治40の句「大根舟 続く炭舟 下り舟」(井上微笑)の碑も嵌め込んである
1
B
相之浦
の掘割り
あいのうら
鹿児島/南九州市
東塩屋
すべり
幅約5m
江戸期
市教委(文化財ガイド・知覧p162)
保存状態やや良好
艀を引き上げるため、海岸の岩盤を開削した斜路/現存例は極めて稀
2
B
相之浦
のめくい
あいのうら
鹿児島/南九州市
東塩屋
舟繋穴、舟繋石
10数ヶ所
江戸期
市教委(文化財ガイド・知覧p163)
保存状態良好/一部現役使用
相之浦・藍之浦・逢之浦・饗之浦などいくつかの表記を持つ江戸から明治にかけて海上交易で栄えた港
1
B
蔵之元湾の唐人石
くらのもと
鹿児島/(出水)長島町
(長島)
蔵之元湾
舟繋石(自然石)
高280㎝
寛文3(1663)
WEB
干拓により5-6m陸側に移設
寛文3年8月、オランダの海賊船が台風を避け、蔵之元湾に入港するという事件があった際に海賊船を繋いだ石と伝えられる
2
B
ニーラン石
沖縄/(八重山)竹富町
(竹富島)
舟繋石
高約50㎝
19世紀以前?
町教委
東から海岸沿いに5分ほど歩く
儀式用(ニライカナイという楽園からやって来る神様の船を. 繋ぎ留める場所)
3
B